2017年3月23日

エメリタス賞金賞を受賞しました

『アイビー・リー 世界初の広報・PR』が、東京経済大学コミュニケーション学部のエメリタス賞金賞を受賞し、賞状が届きました。
この賞は、同学部の名誉教授の皆さまで構成された審議委員会が、修了後1年以内の院生の発表論文や著作を表彰するもの(だったと記憶)です。

2017年1月25日

著書が紹介されました。

経団連社内広報センターの『コミュニケーション シード』1月号に、知り合いの方がコラムで『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』をご紹介くださいました。ありがとうございました。

2017年1月22日

PTバーナムゆかりの米サーカス団が廃業を発表

アメリカの著名なサーカス団「リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus) が、2017年5月の公演を最後に、廃業すると発表しました。

親会社のフェルド・エンターテイメントによると、「経費の増大やチケット販売の落ち込みが響いて経営状態が悪化し、ゾウの曲芸を中止したことが追い打ちをかけた」(CNN)とのことで、5月までに米東部を中心に行なう公演を最後にその歴史にマクを閉じることになりました。

「ゾウのダンスは同サーカス団の長年の目玉だったが、動物保護団体からの批判が強まったことを受けて中止に追い込まれていた」(CNN)とのことです。日本でも、水族館のイルカショーが中止になるなど、動物によるエンタテインメントは厳しい状況です。

サーカス団の名称に「バーナム」とありますが、これは19世紀に活躍した興行師で、このサーカス団の元となる団体の創設者フィニアス・T・バーナム(Phineas Taylor Barnum)の名前です。

バーナムは、専用列車での巡業形式を初めて導入したといわれ、また興行先の地元紙に予め開催告知情報を送り、興行の前宣伝として記事が掲載されるよう、広報エージェントを活用していました。

彼の依頼を受けた広報エージェントたちは、記者に無料招待券を渡して記事掲載を働きかけました。掲載された記事は、「象を緑色に塗ってナウマン像の生き残りがやってくる」といった、興味本位な宣伝記事でした。

19世紀後半になると、全米各地に多くの新聞社が設立され、新聞はパブリックに情報を伝える重要なマス・メディアとなっていきます。バーナムは新聞によるパブリシティの効果を理解し、サーカス巡業の行く先々に先手を打つ、優れた広報・宣伝者でもありました。

参考:
CNN.co.jp「米有名サーカス団、経営難で廃業へ ゾウの曲芸中止響く
アイビー・リー 世界初の広報・PR業務



2017年1月16日

広報エージェントの肩書き

19世紀に活躍していた、リー以前の広報エージェントは自身の肩書きをプレス・エージェントリー(Press agentry)あるいはパブリシスト(Publicist)と名乗っていました。

当時の彼らの最大の仕事は、クライアントの記事を新聞に掲載させることでした。パブリシティは記事掲載と同意語として用いられ、記事掲載を実現するプロの代理人だから「パブリシスト」と称していたのです。

リーは自身の役職や職業名を何度も変えています。たとえば、広報エージェントとして独立した当初(1903年ごろ)は、他のエージェントと同じく「パブリシスト」と名乗っていました。しかし、1906年のペンシルヴァニア鉄道事故広報以降は、自身を「インター・リレーションズ」(当事者間)や「ヒューマン・リレーションズ」(人事、社内)に係わる仕事をしていると紹介しています。

その後、1910年代には「インダストリー・リレーションズ」(産業)や「トレード・リレーションズ」(取引、貿易)を使用するようになり、エドワード・バーネイスが自身のことを「パブリック・リレーションズ・カウンシル」と名乗るようになってから、リーもこの肩書きを使用していました。

バーネイズは、広報エージェントの仕事に権威づけをしようと、法律家が使用していた「カウンシル」を意識して使ったといわれています。

リーは、「あなたの仕事は何か」という問いに対して、「私の仕事は、あるときはクライアントとステークホルダーとの間の通訳である」と答えています。また、知人のジャーナリストが彼の仕事は「企業の内科医」である、と紹介したことを、気に入っていたといわれています。

参考: 『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務


2017年1月9日

アイビー・リー物語(4)

コロラド炭坑ストライキ広報は一定の成功をもたらしましたが、リーにとって手痛い失敗を重ねた一面もありました。たとえば、広報誌の内容にうそが書かれており、それが労働者の怒りを買うことになったほか、メディアにプレスリリースや会社側のメッセージを大量に送りつけた結果、彼らの支持を失いかけたことがありました。

しかし、リーにとって最も成功したと言えるのは、ロックフェラー家のパブリック・リレーションズに対する考え方を、変えることができた点です。シニアは、ジュニアに当主の座を渡した後もパブリックやプレスに対して沈黙を続け、人目を避ける生活を続けていました。しかし、ジュニアが生きる1900年代は大富豪家の当主に、パブリックの前に姿を現し、自ら意見を述べることを要求しました。だから、ジュニアは「真実を話せ」というリーの助言の意味を理解し、よりオープンな姿勢で世論の前に出て、彼らに誠意を持って接し、自らの言葉で語りかけたのです「ラドローの虐殺」事件後、ジュニアの現地訪問が実現したのは、リーの成果でもありました。

リーは広報誌やポスターを作成し、パブリシティを通して労使関係の改善に一定の貢献をしたことは間違いありません。しかし、前述したように、広報誌の掲載内容に間違いが多く、組合やプレスからの反発を招いたのは、これは彼のキャリアにおける初めての大きな失敗だった。これは、『原則の宣言』に書かれた内容とほど遠いものでした。そのため、彼には多くの批判が集まったのです。

たとえば、労働争議を検証する連邦議会の公聴会に、ジュニア側の参考人として出席したリーの発言が、新聞で報道されると、詩人カール・サンドバーグ(Carl Sandburg)から「雇われたうそつき」と批判され、アプトン・シンクレアには「毒薬アイビー(Poison Ivy)」というニックネームをつけられるほどでした。このニックネームは人々の記憶に長く残り、リーは「毒薬」と呼ばれることに晩年まで悩んだといわれています。

この事例でのリーは、今までの成功から比べると拙さを感じざるを得ません。しかし、リーにとってコロラド炭坑ストライキの広報は、ペンシルヴァニア鉄道の脱線事故広報のときとは状況が異なっていました。なぜなら、コロラド炭坑の案件を引き受けた時、彼は鉄道運賃値上げキャンペーンに取り組んでいた時期であり、しかもストライキが発生して半年以上、ラドローの虐殺事件から2ヵ月後でした。

また、プレスやパブリックから見ると、リーは企業=ロックフェラー家にかなり近い立場の人物だと見られていました。リーは、広報エージェントとは「企業と世論の間の通訳者であり、両者間に双方向のコミュニケーションを作るのが仕事」だと語っていましたが、彼がコロラド炭坑ストライキで行った広報活動はそのことばと矛盾しています。

一方、「コロラド争議は、ロックフェラー家にとって、かつてない最も重要なでき事」であり、これを乗り越えたジュニアは、ストライキ収拾においてリーが実践した広報コンサルティングに感謝を述べています。また、リーは、ロックフェラー家と仕事をしたという事実に加えて、企業経営者たちから、その仕事ぶりに対する賞賛を得ました。その結果、リーは民間企業や業界団体から広報業務を数多く引き受け、またロックフェラー家専属広報エージェントになり、1920年代にかけて、アメリカで最も成功した広報エージェントとなったのです。

2017年1月4日

書評が掲載されました

出版マーケティングコンサルタントの土井英司氏が編集長を務める「ビジネスブックマラソン」1月3日号が、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』をご紹介くださいました(紹介ページ)。

(追記)
他の媒体でもご紹介いただいています。ありがとうございます。

◆寄稿
『月刊経済広報』2017年1月号「視点・観点」(経済広報センター、P16~17)

◆書評掲載
『広報会議』2017年2月号「BOOKS」(P124)

2017年1月1日

本年もよろしくお願いします

皆さま、あけましておめでとうございます。

昨年11月に、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』上梓に合わせて、等ブログを開設しました。仕事上の関係者からクライアント、広報業界まで、さまざまな方がお読みくださっていること、大変嬉しく思っております。

2017年は、リーに関連する投稿も続けながら、私が今、パブリック・リレーションズでもっとも関心を持っている分野「倫理(Ethics)」についても、国内外の情報を集めながら、投稿していきたいと考えています。

皆様の本年のますますのご活躍を祈るとともに、当ブログをご愛読くださるようお願い申し上げます。